表現方法としての写真短歌

2017.08.06

 歌人の小池光さんは、「歌を作ろうと思えば散歩に出る、歌を拾いに行く。歌は落ちているんです」と言われているそうです(注1)。私の場合は、「短歌の着想を得ようと思えば撮影に出掛ける。短歌のタネは自然界に満ちていて、接触することで拾えるんです。」

 尤も、短歌は叙情詩であり、「風景に導かれながら心を述べる詩形」(注2)とされていますので、「写真を前提とする短歌では、心を述べる上での制約が大きい」という意見もあるでしょう。

 そのことを否定するつもりはありませんが、文芸は自ら何らかの制約を課してその範囲内で表現していることも事実です。従って、短歌に写真という制約を課す表現様式は、そのことだけで直ちに否定されるべきものとまでは言えないと考えます。

(注1)俵万智✕一青窈『短歌の作り方、教えてください』(角川文芸出版、P.146)

(注2)三枝昂之著『作歌へのいざない』(NHK出版、P.15)

 私の座右の書である永田和弘著『作家のヒント』の第1章には、次の指摘があります。私は、このような指摘に励まされて、写真を撮り、短歌を詠んできました。

  • 日常の何でもない事物、何でもない風景を面白がってみてはどうだろうか。
  • 感動的な場面を忠実に歌おうとするより、できるだけ小さな発見に固執することの方が、初心者にはいい歌が作れることもあるようです。
  • 「方法としての写生」という捉え方こそが、「作歌の現場」においては重要な意味を持つのだと私は確信しています。
  • 歌を読んで感動するのは、かならずしも作者の感情に同情するからではありません。より強いインパクト、ああ、こんな感じ方もあったのかと、ものの新しい見方、感じ方に驚くという場合ではないでしょうか。
  • 発見は、目にした対象の発見ではないのです。そのように常識を離れてものを見ることのできる「自分の発見」「私の再発見」なのです。

 とはいえ、私の写真短歌は、はなはだ未熟と言わざるを得ません。それを承知の上でWebサイトを作ってまで公開するのは、「写真短歌は面白い」からに他なりません。