当初掲載日:2017.10.25 最終更新日:2017.12.15
A.シロツメクサ
2017.11.03(編集12.15)
10月25日、心の花宮崎歌会の11月詠草をeメールで受け取ると、新年歌会は題詠「草」と書いてありました。私の写真短歌の中には、「草」に該当するものがありません。
そこで、2~3日考え、自宅の居間に飾ってあるシロツメクサの絵を題材として詠むことにしました。この絵は、こばやし雅子先生が描かれ、叔母が買い求めたものです。そして2年前に私の自宅に引っ越してきました。
こばやし雅子先生の絵は、現在、自宅に4枚あります。他に、シロツメクサの絵と一緒に引っ越してきた、お弟子さんの絵が1枚あります。これら5枚の絵は、いずれも、この世に2枚とない原画です。
私が初めて絵を貰ったのは、今から9年前。私の定年退職の記念として、叔母が私と妻には内緒で、妹夫婦に呼びかけて先生のスイセンの絵を選んでいてくれました。それは、紫陽花法師誕生の1年前のことです。絵画に親しむ機会を得られたことが、やがて紫陽花法師が誕生する契機となったと感謝しています。
その後、宮崎空港で先生が個展を開かれた時、私と妻も、1枚注文することにしました。先生の説明を聞きながら、秋の霧島(高千穂の峰)、たなびく雲、その麓に広がる田畑、手前には咲くコスモス、という構図にして頂きました。そして、霧島ファクトリーガーデン内の「野の花画廊」に行って受け取りました。
①山野草愛せし叔母の思ひ出に我選(よ)るシロツメクサの絵画
②山野草愛でける叔母の思ひ出に我選(よ)るシロツメクサの絵画 2017.12.15編集
さて、新年歌会用のシロツメクサの短歌は、当初は①のように「山野草愛せし叔母の思ひ出に我選るシロツメクサの絵画」と詠みました。次の「B.ドジなセミ」のような動詞の句跨りではありませんが、句跨りにはなりました。
次に、先生の絵をネット掲載するに当たり、事前に許可を得る必要があります。所有権は私が持っていても、著作権は所有権とは別物であって、所有権者に譲渡や移転はされないからです。
そこで、野の花画廊に電話すると、「先生は出張中です」とのことでした。帰宅してからeメールでお願いしたところ、翌日には許可の連絡を頂きました。
その後、先生の画業40年記念絵画展が開催されている宮崎山形屋に、12月15日(金)の夕方行ってみました。2018年のカレンダーを買い、しばらく先生とお話をさせて貰って帰宅しました。そして、先生に「絵画コレクション」のURLをお伝えせねばと思っている最中、これまでずっと気になっていた二句の「愛せし叔母の」の「愛せし」を「愛でける」にすればいいと気付きました。
B.ドジなセミ
①剪定のされたることを知らぬ蝉 葉のなき枝につかまり羽化す 2017.10.25
撮影当時(2011年夏)は、①のように詠みました。『真夏の戯れ』というタイトルの写真短歌集の中の一首です。
②羽化せんとセミ駆け上(のぼ)る 剪定のされたる枝に隠せぬ我が身
2017.10.25(更新10.26)
2017年11月歌会の詠草の提出後、早々と12月の詠草を何にしようかと考えている時に、①の短歌を推敲して12月詠草にしようと思いました。
11月歌会の詠草では、結句の詠嘆を、俵万智さんの創作である「動詞+体言止め」にしてみました。尤も、その評価はまだですが、10月25日に①の短歌を「羽化せんとセミ駆け上(のぼ)る 剪定のされたる後に隠せぬ我が身」とすることで、同様に結句を「動詞+体言止め」にしました。
しかし、「剪定のされたる後に」は、少し違和感がありました。職場の昼休みに書いた10月25日のメモを見返すと、当初の「剪定のされたる後に」を「剪定のされたる枝に」に変えていました。10月25日の夜は、そのことを忘れていましたので、翌日編集しました。
③羽化せんとセミ駆け上(のぼ)る 剪定のされたれば隠し切れぬ我が身
2017.10.25
11月歌会の詠草は、四句と五句を「巣の中に風送るミツバチ」とすることにより、「句跨りの雰囲気は感じられる」という程度の句跨りには出来たと思っています。
そこで今回は、11月詠草よりも明確な句跨りにしたいと思いました。それが③です。気がかりな点は、「剪定のされたれば」としたことで説明的になってしまったことです。
④羽化せんと枝駆け上(のぼ)る 剪定のされたれば隠し切れぬ我が身
2017.10.26(更新10.28)
③の短歌は別の問題があることに気付きました。句切れまでの句は「セミ駆け上る」と詠んだことで人間の視点になっています。一方、句切れ以降は「我が身」と詠んだことでセミの視点を出そうとしています。そこが統一できていません。気付いたのは、10月26日の始業前に職場の休憩室でテレビを点けて考えていた時です。
10月21日に宮崎市のオルブライトホールで開催された「和歌文学会第63回大会」の公開講演シンポジウムにおいて、パネリストの一人である歌人の小島なおさんが「擬人化」に対する「擬物化」という概念を説明されました。若山牧水の或る短歌を取り上げて、「これは自分を海に喩えている。擬人化に対比して言えば擬物化だと言える思う」と。10月26日の昼休みは、そのことを思い出しながら、セミの視点で統一することにしました。(尤も、②は擬物化でなく擬人化だろうと言われそうです。私としては自分がセミになったつもりで詠んでいます。セミは物ではないので厳密には擬物化とは言えませんし、「自分がセミになったつもり」は擬人化なんだと言われても否定はしません。視点の統一に小島なおさんの話が役立ったというだけです。)
それとは別に、この情景を写真短歌としてはどう詠めるだろうかと、10月25日から考えていました。つまり、羽化、セミ、剪定、隠せぬ我が身、これらは写真を見れば分かることなので、その要素を出来るだけ減らすか、写真に写っていない要素を詠む込むことで写真短歌ならではの短歌にしたいと思った訳です。そうして詠んだバージョンは詠草として提出できなくても。
そういう二つのことを意識しながらで10月26日の昼休みに詠んだのが④です。「セミ」を「枝」に変えただけですが、セミの視点で統一することが出来ました。
羽化と言えば、セミ、チョウ、トンボを思い浮かべます。そして「枝を駆け上る」と言えば、やはりセミでしょう。こうして、写真を見るだけで一番分かることである「セミ」は、詠まずに済ますことができました。目指す写真短歌に一歩近付くと同時に、写真を前提としない通常の短歌としても、「何もかも説明するのではなく読者を信頼して委ねる」(この意味は次の⑤の引用部分で説明しています)ということにもなるでしょう。
しかし、やはり四句の「ば」が気になります。
⑤羽化せんと枝をチョイスし駆け上(のぼ)る 剪定されて隠せぬ我が身
2017.10.27
四句の「ば」が気になるので、10月26日の夜に④の短歌と文章をアップしてから、永田和宏著『作歌のヒント』(新版、NHK出版)を読み返しました。正岡子規の「瓶にさす藤の花ぶさ短ければたゝみの上にとゞかざりけり」について、次のように指摘されています。
この一首における「短ければ」はどうでしょうか。(中略)この「短ければ」は虚心坦懐に見て、やはり私には説明臭いと響いてしまいます。歌会にでも出されれば、どんな批評が出てくるでしょう。多分、批判の声はかならず挙がると思います。
もちろんどんな場合に「ば」が許され、どんな場合はだめなのか、そんな処方箋はありませんが、ひとつ言えることは、それが説明になると思われれば避けたほうが賢明だということでしょうか。説明は、読者への信頼感の希薄さによるものです。「ば」ということばで「理」を解かずとも、読者はわかってくれるはずだという信頼をもてるかどうか。選歌をしていていつもいつも歯がゆく残念なことは、たいていの場合このひと事に尽きます。
そこで、翌日(10月27日)の昼休み、⑤のように詠みました、二句切れでなくなり、四句と結句は句跨りでなくなりましたが、「ば」をなくすことを優先しました。
⑥羽化せんと枝をチョイスし駆け上(のぼ)る 刈り込まれ隠し切れぬ我が身
2017.10.27
10月27日の夜、写真の短歌をPhotoshopで⑤のように変更してアップしました。
ところが、「剪定」の類語を『類語新辞典』(三省堂)で探してみると、「刈り込む」がありました。そこで、⑥のように修正して入れ替えました。
これで、結句を詠嘆の「動詞+体言止め」にするだけでなく、四句と結句を明確な句跨りにすることができました。
⑦羽化せんと枝をチョイスし駆け上る 剪定(かりこま)れ隠し切れぬ我が身
2017.10.27(更新10.28)
すると、ふと、「剪定」という漢字に「かりこむ」という読みを当てることを思い付きました。ただ、技巧が過ぎると歌会で得票を得ることは難しいと思うので、⑦より⑥が良いかも。或いは⑤の方が簡潔で良いかも。⑥と⑦は、三句の句切れをはさんでの四句の展開に無理があるかも知れません。
あれこれ思いつつ、⑥を試してみたい誘惑が断ち切れません。三句から四句への展開に無理があると判断されるかどうか、それを知るためにも⑥を提出しようと思います。
⑧羽化せんと枝をチョイスし駆け上(のぼ)る 刈り込まれ隠せぬ我がボディ
2017.11.03
11月になって読み返してみると、⑥と⑦の「隠し切れぬ」は、「句跨りではなく、四句8音、五句6音」と解釈される可能性が高いと思いました。
そう思ってから1時間後、それが何故なのかが分かりました。「隠し切る」は「隠す」と「切る」という2つの動詞の合成語であって、句跨りだとしても「隠し」の「し」という1音だけが五句に跨っているように思われるため、「四句8音、五句6音」と解釈されてしまうと気付きました。
そこで、「刈り込まれ隠せぬ」+「5音の名詞」とすれば、四句は9音ではなく「せぬ」は句跨りと解釈されることは間違いありません。つまり、五句への句跨りは最低2音が必要だと思いました。例えば「刈り込まれ隠せぬ我が体」、「刈り込まれ隠せぬ我がボディ」。上の句で「チョイス」を使っていることから、後者にしました。俵万智さんの創作である、四句と結句の句跨り、結句の「二音の動詞+五音の体言止め」による詠嘆、という手法の真似がようやく出来ました。
ただし、一首の中の動詞が5つもあります。これを動詞3つ以下に減らす必要があります。
・地上での/初の仕事は/枝探し/刈り込まれ隠/せぬ我がボディ/
・地上での/初の仕事は/枝探し/急ぎ上れば/ボディ丸見え/
これで動詞3つ以下になりました。
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